月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

20.降天



目を開いた時に飛び込んできた瞳の色をみてアンジェリークは思った。
ほら、やっぱり良く似ている、この色。
「クラ……ィス……さま……の……」
瞳の色。
と言おうとしたが、うまく声が出ない。
ここは自分の部屋の、ベッドの上のようだった。
横になったまま、心配そうに自分を見ているそのひとの頬にふれようと、アンジェリークはゆっくりと手を伸ばす。
その手を大きく暖かい手が包み込み、彼の額の辺りへと持っていくと、そのひとは俯いて、瞳を閉じてしまった。
「…………………」
声にならない声が聞こえ、うつむいた頬にひとすじの涙が流れる。
アンジェリークはそっともう一方の手を動かすと、そのひとの頬をつたう温かい滴をぬぐいふたたび口を開く。
「ただいま」
目が開き、もう一度その紫の瞳が姿を表し、やさしい笑みが彼女を包み込む。
「……よく、戻った……な……」
迎えの言葉の最後は、静かに重なり合った唇にかき消された。

窓の外の空は、どこまでも青い。
恋人の『死』に、はじめて泣いたあのひと同じ、どこまでも青い空。
その青さに、悲しみを感じないといったら嘘になるけど、もうきっと大丈夫。
唇のぬくもりが、アンジェリークにそう教えてくれた。
窓辺にある一枝の白い花が、青い空の前にくっきりとその輪郭をうつしだす。
おだやかに吹く風が、カーテンをゆらし、花弁を静かに舞い上げる。
もうきっと大丈夫。
アンジェリークはもう一度そう思った。
 

やさしく、確かめ合うように、何度も、何度もふれあう長いくちづけの後、アンジェリークがクラヴィスに尋ねる。
「あの白い花は、いったいどうしたんですか?」
「オリヴィエがな、見舞いだそうだ」
少し違うが、まあ似たようなものだな、と、クラヴィスは昨夜のことに想いを馳せた。

「はあーい、クラヴィス、アンジェリークはどう?」
いつも通りの挨拶をひそひそ声ですると夢の守護聖が部屋に入ってきた。
椅子に腰掛けたまま振り返るとクラヴィスは
「まだ眠ったままだが心配はいらない。疲れが癒えれば、自然に目覚めよう……」
と応えた。彼の場合、ひそひそ声にする必要は全く無い。
「そっか、良かった。エリューシオン、大騒ぎだったんだってさ。天使様が天から降りて来たって」
そう、アンジェリークは聖地の次元回廊でなく、大陸の中央の島のエリューシオン側に、ある夜突然姿を現した。
天から光を纏い静かに降りてくる眠ったままの少女に大陸の民はおお慌てに慌て、聖地に連絡を取った、というわけである。
「そうか」
微かだが、笑みをもらすクラヴィスに夢の守護聖は、あらま、と思いながらすこし真面目になって言う。
「でもさあ、何でフェリシアとエリューシオンは無事だったんだと思う?陛下の結界も必要ないほど虚無への繋がりは安定していたんだってさ。まるで、内側から守られてるみたいに。それってえ、もしかして」
―― 前女王陛下のお力?
という言葉をクラヴィスが遮る。
「この者が目覚めれば、自ずと真実も解かろう」
ま、その通りね、と肩を竦めるとオリヴィエはいきなり一枝の白い花を差し出す。
「はい、これアンタにあ・げ・る」
「私に?アンジェリークにでなく……?」
眉をひそめるそのひとに彼は言葉を続ける。
「そ、って言っても私からじゃないんだけどね。私の前任の、夢の守護聖サンからよ」
クラヴィスが息を呑む。

―― メイファン殿から ――?

「ご存知の通り、私、守護聖になるの渋って聖地に来るのが遅れたから、直接会ったことはないんだけどね。手紙が置いてあったわけよ。ご丁寧に。しかも巻き物よ〜、巻き物!こっっっんなに長い奴」
と、両腕をいっぱいに広げてみせて、それでも足りない、といった顔をする。
「聖地のこととか、仕事のこととか、色々書いてあったわよ。人間関係まで!あれで私、聖地の人間関係通になっちゃったわね」
きゃはは、と笑う。
「でもなんて言うのかな。大切なことっていうか、深いトコロまでは書いてなくってさ、自分で感じて、判断しなさいって、言ってるみたいだった。あれ読んで、聖地に来るの渋って彼に会えなかったコト、ちょっぴり後悔したわね。私」
ふう、と、ため息のような、笑いのような息をこぼす。
「それで、その手紙の最後に、私事で恐縮だがって。庭の梨の木は切らずに残しておいて、その花が今迄で一番美しく見えた時に闇の守護聖に渡してくれって。私が美しさを司る夢の守護聖なら、それがいつかは必ずわかるはずってね」
彼の言ってる闇の守護聖って、アンタのことよね〜?と付け加える。
「実はさ、庭ごととってあるのよねー。全っ然、趣味違うんだけど。 でも、すごくいい味だしてんのよ。ルヴァなんて、おきにいりで入り浸ってるわよ〜。きゃはは」
つい大きくなってしまった声を慌てて落とす。
「ほんとは、今日まで忘れてたのよ。そんなこと。だってわかんないんだもん。一番美しく見えた時、なんて言われてもさあ。ま、キレイな花だけどね。でも今日、月明かりに照らされて、闇に白い花が浮かび上がって。風に舞い散る姿なんて、ほんと、夢みたいに美しいって、こういうことを言うんだって、思ったのよ。
それで思い出したの、手紙のこと。きっとあれは今夜のことなんだって」

黙って枝を受け取るクラヴィスの脳裏に
青い月影に照らされる白い梨花が浮かぶ。
さぞかし、美しいだろう。

「今度皆で見にいらっしゃいよ。マルちゃんにさ、カティスのワイン持ってきてもらって騒ぐ、ってどう?」
「そうだな、それも良いな」
そう答える顔に浮かぶ穏やかな笑みをみて、こーゆー顔もできんじゃない。と考える。
「そういや手紙にね、この梨の実は一つの実を親しい人と二人で食べちゃいけないって書いてあったんだけど。何でかしら?知ってる?」
クラヴィスはくつくつと楽しそうに笑う。
―― あの方は、そんなことまで。
「あの方の故郷では、別れを意味する言葉とこの木の名が同じだからだ。ひとつ実をふたりでわけると、いずれふたりは離れ離れになる、ということらしい。
どこまで本気で言っているのかは、わからぬがな」
(註・中国語の『離』と『梨』は同じ発音のため、そのように言われているが、どこまで一般的かは不明)
「もしかして、その人、めちゃくちゃお茶目さんだったりした?」
呆れたように言い、でもっけっこう、そういうの好きだわ、私。とつぶやきながら、じゃ、ね。と夢の守護聖は帰って行った。
 
別れを意味する白い花。
闇に浮かぶその花を美しいと思えた時、それは過去との別れの時。
しかし新しい想い出の奥に、その想い出は消えることなく、なお彩やかに、甘やかに、存在して自分を支えてくれる。
あの方が伝えたかったのは、こういうことなのだろう。
クラヴィスは目の前のアンジェリークを見つめながらそう思った。
アンジェリークもクラヴィスをみつめている。
再びやさしく互いの唇が重なった。
うっとりと閉じられたその瞼にもそっと唇を落とし、額にかかる金の髪を指で繊細にかきやりながら囁く。
「ゆっくり休め。もう、何も、案ずることはない」
音も無く、部屋を出ようと立ち上がったクラヴィスの長い黒髪が、ぐん。と、引っ張られた。
小さな手がそれをしっかりとつかんでいる。
「……何をしている」
いきなり髪をつかまれて、ちょっとむっとしたクラヴィスに少女は言う。

「そばにいて」

消えそうな、小さな声。
「……ずっと、目覚めることが恐かったの。朝、目覚める度に訪れる絶望が。
でもさっき、目を開いて、あなたがいて……目覚めたことが、とても嬉しかった」
瞳から涙が溢れ出る。
今度はそれをクラヴィスがやさしく拭った。
頬に触れた手が、とても温かかった。
「あなたは気付いていないかもしれないけれど……私、あなたにずっと助けられてた。
あなたがいたから、私は今、ここにいるの」
でも、まだ少し、少しだけ不安だから。目覚めた時、あなたを感じることができるよう。
「だから、そばにいて」
髪をつかんだままの手をそっとにぎりしめ、クラヴィスは一回は立ち上がった椅子にもう一度腰掛ける。
「この私が、誰かを救えるなどと、思ってもいなかったな」

闇だけをみつめ、生きてきた。
一度だけ、そこから救い出される手を放して以来、もう二度とそのような手は現われないと思いながらも、何処かで救いを求めていた自分が、である。
しかも目の前のこのひとは、ともに闇をいだきながら、それでもしなやかに立ち上がり、ゆっくりと歩き出そうとしている。
おまえを救えることが逆に自分にとって、どれだけ救いになっているかおまえは知るまい。
かつて『自分に誰かが救えるなどと思わぬことだ』と言ったことがあったが、あれは過ちだったな。
私にとっても、おまえにとっても。

「傍にいよう。おまえが眠り、そして目覚めたその後も。ずっと……」

その言葉に頷きアンジェリークは目を閉じた。
唇に訪れるやわらかな感触。
あのとき ―― 虚無の中で ―― セリオーンは『行きなさい』と言ったのだと思っていた。
でも本当は、こう伝えたかったのかもしれない。
『生きなさい』
と。

そう考えながら、彼女は眠りへと落ちていった。
再び目覚めるための ―― 安らぎの眠り、へ。


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「余計なお世話その5」
梨にはそう、「別れ」という意味があったのです。
と、いうことは。と思った方
月さえも眠る夜〜闇をみつめる天使〜
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